2009年2月1日日曜日

「ワインには2種類しかないんだよ」

 さらに時間を遡って、いまから20年くらい前の小さなエピソードをお話ししたいと思います。その頃25、26歳だった僕は、とある月刊誌の編集スタッフをしていました。ワープロ、ファックス、留守番電話は普及していましたが、パソコンも携帯電話もまだなかった時代です。あの頃は雑誌の世界にも勢いがありました。ユニークな企画が誌面に踊り、ライバル誌同志が毎号売り上げ部数を競って火花を散らしていました。編集部には「この人はいったい何ものだろう?」と思わず目を奪われるような奇人変人、本物かペテン師か見分けの付かない事情通、得体の知れぬ有象無象が昼夜を問わず出入りして、いつもざわざわがやがやと賑やかで、いかにも面白いことが醸成されそうな雰囲気が漂っていたものです。
 当時僕が担当していたページに『東京ナイトクラブ』という連載がありました。某大手酒類メーカーがスポンサーをして、カクテルの魅力を紹介するという企画だったのですが、実際のところは、グラフィック・デザイナーで無類の酒好きの0さんをリーダーとした4、5人の飲み仲間が都内のバーをめぐり、四方山話に花を咲かせる、その様子を面白おかしく誌面に載っけるというものでした。主力メンバーの平均年齢は40代後半。まだ駆け出しの編集者だった僕は取材費という名の飲み代が入った財布を抱えて、大酒飲みたちの後をついてまわるという、Oさんたちにとってはなんとも都合のいい存在でした。
 カクテル紹介が目的のはずの取材は、いつも居酒屋から始まりました。1時間ほどビールや日本酒を飲み、腹ごしらえをしてからようやく1軒目のバーへ。しかし、ここでOさんが注文するのはカクテルではなくワイン。僕を含めて5、6人いるわけですからボトル2〜3本はすぐに空いてしまいます。2軒目のバー、つまりこの日3軒目の店に移る頃には、みんなもうかなり酔っぱらっていました。いったい一晩でいくらの飲み代を払ったことか。しかもその代金を経費として堂々と精算していたのですから、いまの世の中からは想像もできないような呑気でバブリーな時代でした。
 そんな放蕩取材が終わったある夜更けの帰り道、僕はメンバーのひとり、Aさんとタクシーに乗っていました。Aさんは広告関係の写真でいくつもの賞を獲っている名うての写真家です。20歳以上も年の離れたオジサンと後部座席に並んで、はて何を話したらいいものかと僕は困ってしまいました。共通の話題といえばお酒のことくらいしか頭に浮かびません。僕は気まずい沈黙を避けるためだけに、何気なく、こんなふうに切り出しました。
「ワインって、香りや味の表現とか、いろいろと難しいですね」
 隣で腕組みをしていたAさんが顔をこちらに向けました。その動作に、ただならぬ意志のようなものが込められているような気がして、僕は少したじろぎました。何かまずいことを言ったのだろうか?
「あのね、浮田クン、決して難しくはないよ。ワインには2種類しかないんだ」
 とっさに僕の頭に浮かんだのは、赤ワインと白ワインの2種類ということでした。でも、それではなんだかピンと来ません。僕の反応をゆっくりと確かめてから、Aさんは言葉を補いました。
「おいしいワインと不味いワインだよ」
 
 それは衝撃的な一言でした。目から鱗というのか、コロンブスの卵というべきか、Aさんの、おそらくは数限りないワイン体験の果てに導き出したであろう箴言に触れ、ついさっきまで近寄りがたかったり、よそよそしかったりしたワインという飲み物が一瞬にして身近な存在になったような気がしました。あれから20年以上の月日が経ち、ずいぶんたくさんワインについての言葉に出会いましたが、あれ以上に端的で真理を衝いた表現にはまだ出会えていない気がします。
 ワインには、おいしいワインと不味いワインの2種類しかない。

『東京ナイトクラブ』の放蕩取材で、もうひとつ悟ったことがあります。それは、おいしいワインというのは何本目に飲んでもおいしいということ。僕の酒量はいまだに大したことがなく「関脇級」と自己評価していますが、当時はいまより下戸で、せいぜい前頭の下の方だったと思います。当然、大酒飲みたちに交じって飲むと真っ先に酔っぱらってしまい、途中で舟を漕ぎ出すこともしばしばでした。そうなると、せっかく高いお酒を何種類も飲ませてもらっても、もはや違いさえわかりません。じつにもったいない話です。ところが、本当においしいワインだけは、どんな順番で、何本目に出てきても、香りを嗅いだ途端にハッと目が覚めてガバッと起きあがってしまうということが何度かわが身に起こったのです。確か19世紀のイギリス人作家P.G.ハマトンが『知的生活』という本のなかで、ワインを飲む人は他の酒を飲む人よりも鋭敏で活発な頭脳を持っているというようなことを書いていたと思いますが、少なくともよいワインについてはハマトンの言うような作用があるのかもしれません。

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