Hさんは元々フランス料理の修業をするためにヨーロッパに渡ったけれど、途中に立ち寄ったイタリアで、かの地のワインと宿命の恋に落ちて、その後の人生の進路を変えてしまったという経歴の持ち主です。AZのカウンターには常時15本くらいは赤ワインが並んでいます。客の側から見て左にいくほど手頃な価格のワイン、右にいくほど値の張るワイン。さらに客からは見えないカウンター下のクーラーにスプマンテ(発泡ワイン)と白ワインが何本かあって、それらの大半がグラスで楽しめるというシステムです。Hさんは料理やデザートもなかなかの腕前なのですが、例によって経済的に余裕のなかった僕は、食事は余所で済ませてから入店し、塩漬けオリーブやチーズといったつまみを摂るにとどめて、なるべくたくさんのワインを飲むようにしました。
飲むほどにイタリアワインの懐の深さが僕を魅了していきました。カリフォルニアのワインが太陽と大地の恵み、輝くバイタリティを感じさせるとしたら、イタリアのワインから感じるのは詩情や哀切、まだ実現されたことのない完全なる精神といったところでしょうか? もちろんHさんのセレクトが優れていたということもあったと思います。イタリアには4万軒以上のワインメーカーがあって、毎年20万もの銘柄が造り出されるといいます。ただ闇雲に手にとって飲んでいたのでは、イタリアワインという大海原で溺れてしまっていたことでしょう。
Hさんからは多くのことを教わりましたが、なかでもその後の僕のワインとの付き合いに決定的な影響を与えたのは、飲み残したワインの扱いについてでした。よくバーやレストランでグラスワインを注いだ後のボトルの口に専用の道具を押し当てシュカシュカとやってなかの空気を抜いているのを見かけますが、Hさんは抜栓したコルクを無造作に元に戻すだけ。その場だけそうするのではなく、翌日に持ち越す飲み残しのワインでも同じことをするのです。気になって「ワインが酸化するんじゃないですか?」と訊くと、
「酸化させているんですよ」
と平然として答えます。ちゃんと造られたワインというものは開けてすぐに死んでしまうほどヤワじゃない。わざと酸素に触れさせ、酸化させることによって、時間経過による味わいの変化を楽しむのが正しいワインの楽しみ方なのだ、というのがHさんの説明でした。こういうことは理屈ではありません。Hさんはときどき抜栓後4日も5日経ったワインを平気で出してきましたが、それらは開けたてとは別物の、しかしそれ以上の魅力を湛えていることがありました。そんなとき、Hさんはしたり顔でこんなふうに言ったものです。
「いやあ、2日目にひどい味になって、3日目もぜんぜんダメで、もう捨ててしまおうかと思ったけど、4日目にいきなりグワッと上がってきたんだよね」
この「Hさん理論」に触れて思い出すエピソードが先述のイタリアワイン紀行の取材中と取材後にありました。
まずは取材中の話から。トスカーナ南部、モンタルチーノという銘醸地にジャンフランコ・ソルデーラという造り手を訪ねたときのことです。彼の手がけるブルネッロ・ディ・モンタルチーノ“ソルデーラ”は市場に出る前にオークションにかけられるほどの名品。そのこだわりの仕事ぶりは、ちょっとした伝説になっています。ソルデーラ氏へのインタビューのなかで「良いワインとは?」という質問をぶつけたとき、彼はこう言いました。
「今夜飲むワインのグラスを洗わずにとっておきなさい。明日の朝、そのグラスに鼻を突っ込んで匂いを嗅いでみて、グラスの底に残ったワインの雫から不快な匂いがしたら、そのワインは二度と飲まないほうがいい。朝になっても快い香りがしたら、それこそは良いワインだよ」
取材後、原稿をまとめる段になって、ある輸入代理店から1本のイタリアワインが送られてきました。ぜひ特集のなかで紹介してほしいというのです。それはシーザーに愛され“ワインの王”と称されるバローロの、特級畑で穫れたぶどうのみを使った高級品でした。ヴィンテージは93年。まずまずの良年です。長期熟成に耐えて真価を発揮するバローロの飲みごろはまだまだ先のはずで、開けてしまうのが罪なことはわかっていましたが、飲んでみないことにはコメントも書けません。ある夜、仕事部屋で栓を抜き、歓喜のうちに飲み干してしまいました。先にも述べたように僕の酒量はせいぜい十人並みで、ワインをボトル1本というのは明らかに飲み過ぎです。ところが、そのバローロは難なくボトルをカラにできただけでなく、翌朝目覚めたときにも気分は晴々、鼻腔の奥にはいまだに芳しいブーケが残っているほどだったのです。さらに驚いたのは朝食を終えて仕事部屋に入ったとき、そこがなおもうっとりするような香気に満ちていることでした。
イタリアワインは僕にワインという飲み物が持つ底知れぬ生命力を教えてくれました。
例のワイン紀行取材のあとも、2000年、2003年と、イタリア取材に出かける機会に恵まれ、ワインに関する知識もそれなりに深まりました。

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